「不承認」のシュプレヒコール

 日本は1960年1月、日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)に調印した。これに対し日本国民は、アメリカの戦略体制のなか戦争になる危険があるとして、国民的な阻止行動、反対運動の大規模デモによる安保闘争を行った。この運動で新安保条約を日米両国政府当初の意図通りに実現させることを困難にさせたのである。

 1944年日本政府はポツダム宣言を受諾し降伏し第二次世界大戦に敗戦した。米国は日本に対し五大改革指令を出し非軍事化、民主化、農地改革と財閥解体が行われ。GHQはマッカーサーの方針で憲法改正案を作成それをもとに日本政府は憲法改正草案を公表46年11月に日本国憲法交付、翌年5月に施行、新憲法は国民主権、基本的人権の尊重、平和主義、天皇は国民統合の象徴と定めた。

 米国の極東政策は毛沢東率いる人民解放軍が中国内戦の勝利から日本を資本主義陣営内の有力な国家にする方針へと転換。朝鮮半島では50年朝鮮戦争が勃発、米国はソ連欠席の国連安保理事会で北朝鮮に国連軍介入を決定、憲法を無視して日本は再軍備された。

 すべての国との全面講和でない限り平和はおとずれないという批判のなか51年にサンフランシスコで講和会議が開かれ49か国との間で講和条約が調印された。同日、吉田首相は日米安全保障条約を結んだ。60年1月、日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)の調印を行った。日本国の安全と極東における国際の平和及び安全の維持のために米軍の基地使用の権利を引続き認めているため日本が直接関係しない紛争に巻き込まれる惧れが指摘された。

 1960年6月、10万人の国会デモのうち全学連の約7千人の学生は国会構内に突入し警察官と衝突、乱闘で東大生が死亡した。6月19日午前零時、国会周辺に座り込んだデモ隊の「不承認」のシュプレヒコールのなか、新安保条約は自然承認となった。しかし新安保条約は発効したものの、この史上最大の国民的運動によって新安保条約を日米両国政府の当初の意図通りに実現することを困難にさせたのである。

参考文献、  竹内誠(編集)、君島和彦 (編集)、佐藤和彦(編集)、木村重光(編集)『教養の日本史』東京大学出版会、1995年