武士の政権と日本文化の開花

 平安中期以降、任国に赴任して政務を執った国司の最上席の者である受領と並ぶ社会集団である武士は、弓馬の術を中心とした合戦の技術をもった芸能人・技術者である。対立抗争を繰り返し強力な武士が他を統合、武士団を形成していった。そしてその軍事的な技能で国衙の求めに応じて、地方の治安維持に貢献した。

 院政と荘園の発達によって促された権力の分立、その権力同士の争いを制した武士は鎌倉時代、室町時代には多くの日本文化を開花させ、政権のみならず文化の発展に貢献し700年にわたって続く武士の時代を生み出したのである。

平安時代、

地方で争乱が起きると朝廷は中央の下級貴族や地方の有力者をこれにあたらせた、その中に乱の鎮圧後も地方の開発領主となる者、兵を蓄え勢力を伸ばす者も現われ、都に上って内裏や貴族の邸宅の警護を担うようになる。こうして朝廷の武力としての武士が誕生した。

 10世紀中頃、東国・平将門の乱と西国・藤原純友の乱は武士勢力の歴史の舞台への登場を示す。1156年の保元の乱を通じて平清盛(1118~81)は、1167年武士初の太政大臣となり平氏の栄華が始まる。平地の乱後1180年、伊豆にいた源頼朝(1123~60)は、以仁王(1151~80)の令旨を手にし中小武士を統合、軍隊は朝廷の公的な地位を与えられ1184年一族の義仲(1154~84)を滅ぼし源氏の棟梁となり。翌年、壇之浦で平氏を滅ぼし1189年奥州藤原氏を滅ぼし1192年頼朝の征夷大将軍補任により鎌倉幕府を成立。1213年執権政治が始まり承久の乱後、六波羅探題が置かれ鎌倉幕府は西日本への影響力を強める。

鎌倉時代には

貴族や寺院のみならず武士が文化の担い手となる『平治物語絵巻』に武士の美学の開花、武具の甲冑が描かれる。幕府関係の造仏を担当した運慶(?~1223)が慶派として東大寺南大門の『金剛力士像』写実的で力強い鎌倉彫刻を制作、源平の争乱を敗者平氏の立場から描いた『平家物語』は琵琶法師による語り芸として広まった。さらに時宗の開祖・一遍(1239~89)の生涯を描いた『一遍上人絵伝』など、信仰仏教をはじめとして祖師、宗祖の業績を描いた絵巻物も多数制作される。

 元寇により鎌倉幕府が内包する矛盾が深まり悪党蜂起が問題となり、さらに得宗の身内人の利益を追求した得宗専制による政権は御家人の反発をまねいた。1333年鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の内乱のなか1338年足利尊氏(1305~58)は北朝より征夷大将軍に任ぜられ室町幕府を開いた。1392年、南朝より北朝の後小松天皇(1377~1433)に譲位され南北朝の合一が実現した。

 この時代、民族的文化の萌芽の時代ともいわれる。貴族の伝統文化とバサラと呼ばれた武家の華美な文化、禅宗に代表される中国文化とが混在する独自の室町文化が生まれた。足利義満(1358~1408)が北山に建てた鹿苑寺金閣は時代の特徴をよくあらわしている。義満の保護を受けた観阿弥(1333~84)・世阿弥(1363~1443)父子による能は芸術性が高められ。庶民文化の開放的な雰囲気を伝える喜劇の狂言。足利義政(1436~90)が建てた慈照寺銀閣、義政が幕府御用絵師とした狩野正信(1434~1530)や禅の精神を示す水墨画の雪舟等楊(1420~1506頃)らが活躍、茶の湯や枯山水の庭園、生け花などの発達、『太平記』などが物語僧により広まる。  

 応仁・文明の乱による室町幕府体制の破壊から多くの戦国大名が成立し戦国の争乱は、織田信長(1534~82)の入京、足利義昭(1537~1597)の追放、斎藤・浅井・朝倉・武田などの戦国大名の打倒、一向一揆撲滅、本願寺光佐の石山退去により統一にむかい本能寺の変での信長の死により統一事業は豊臣秀吉(1537~98)に継承され1590年、後北条氏討伐・奥州平定により全国統一を完成させた。

 院政と荘園の発達によって促された権力の分立、その権力同士の争いを制した武士は鎌倉時代、室町時代には多くの日本文化を開花させ、政権のみならず文化の発展に貢献し700年にわたって続く武士の時代を生み出したのである。

参考文献、 竹内誠(編集)、君島和彦 (編集)、佐藤和彦(編集)、木村重光(編集)『教養の日本史』東京大学出版会、1995年

関幸彦『武士の誕生』講談社学術文庫、2013年
渡辺尚志『百姓の力-江戸時代から見える日本』柏書房、2008年