イスラーム信仰は公の領域と私の領域を分ける観念が存在しない聖俗不可分なのである。ゆえに、ムスリムがヨーロッパで暮らす場合、聖俗不可分と現在の西欧世界諸国の聖俗分離という相反する原理が衝突することがあるのである。
西欧世界諸国は近代化の過程で、キリスト教会が国家権力に及ぼす影響を排除する方向で聖俗分離をおこなった。国家の権力が大きくなるにつれて「国家と教会の分離」が課題となり、国家に関わる公の領域から、宗教色を弱め宗教から中立な立場をとるようになったのだ。
聖俗分離の観念が存在しない。人間社会の領域と私的な領域とに分けて社会の領域を非宗教にして信仰は個人の心の内に留めるという考え方はなじまない。イスラームの信仰は「信じる」ことと定められた「行為」の実践、あるいは禁じられた行為をしないことが求められ「心の内面に向かう信仰」「外に向けて表れる行為」が合体しないと成り立たない構造なのだ。また人間の知恵では十分な規範をつくれないという考えをもち、生涯のあらゆる行為に神の定めた規範を定めているのだ。彼らはそれを人間の自由を束縛するものとは考えてはいない。さらにイスラームの神は、人間が欲望に弱い存在だと知悉した慈悲深い存在とされ神のルールを守らなくても善行で埋め合わせればよいと教える。また、人間による神の代理を認めない。宗教権威者によって指導され、統治される教会というものも存在しない。教会が存在しない為、国家と分離しようにもその相手が存在しないことになるのである。
イスラームでは信仰に関して公の領域と私の領域を分ける観念がない、聖俗不可分なのである。イスラームの神は全知全能の絶対者であり、何でも成すことができる、ムスリムからみれば神の定めた規範が私的領域だけなら神の絶対性を否定してしまう事になるのだ。ゆえに、ムスリムがヨーロッパで暮らす場合、その聖俗不可分と現在の西欧世界諸国の聖俗分離という相反する原理が衝突することがあるのだ。
参考文献、 内藤正典『ヨーロッパとイスラーム-共生は可能か-』岩波書店、2004年