カメラ機械が生み落とす機械映像は、本質にはテクノロジーの問題があり人間が知覚する像とは異質な存在である、このことが映像と文化の核心を成している。身体の外部にある映像は、他者と共有可能なものとして機能し同一の映像が複製されて多数の他者と共有される文化的な知が成立する。この映像の力は厚みのある発見行為を促し、さらには人間の創造的行為につながるのである。
映像の世紀、人間の知の拡張に必要な映像
映像とはカメラという機械が生み落とす機械映像のことで人間が世界を視て描いたものではなく、カメラという機械が視て捉えたものである。映像は本質的に人間が知覚する像とは異質な存在であり、どんなに時代が流れ新しいテクノロジーが新たな映像を生み出したとしても、このことが映像と文化の核心を成していることに変わりないのだ。
人間の眼、人間の知覚は、よく視ようとするものに自然とフォーカスを効かせ続ける絶えざる運動であり、行動の有用性を尺度に目の前に在るものを縮減して視る、私たちの身体が意識的であれ無意識であれフォーカスをかけて視るべきものを視、視る必要のないものを捨象している、減らしているのである。
他方、カメラという機械が視て捉える映像のほうはどうであるか、カメラは機械であるためカメラ自体が前に在るものの重要性を判断したり、視るべきものの取捨選択を行ったりしない。カメラは無差別的に世界を、外界を文字通りメカニカルに捉えるだけである。機械映像の知覚とは、充満する細部や時間の異様な圧縮の知覚であり、同時に行動の有用性を外れる私たちの視覚の無意識に重なっていく知覚である。
映像という機械の知覚像、機械の視覚像は、肉眼とは異なり身体の外に生み落とされる、映像は身体の外部にあることによって共有可能なものとして機能する。
肉眼の視覚像は身体内から取り出すことは出来ず、それ自体を他者と共に見ることができないが、映像は機械的複製であるため、同一の映像を複製して多数の他者と共有することで文化的な知が成立する。それゆえに映像は同一の映像を見る人々をひとつの集合として凝集させ、動かす力をもっているのである。
機械的複製たる映像は、拡大縮小したり持ち運んだりすることもでき保存することにも適している。こうした映像の力は人間の知覚とは本質的に異なるところから発している。人間の知覚と映像という機械の知覚との類似性こそが、映像の最大の価値であると見做すむきもあるのだが、それは二義的問題であり、むしろ映像の核心にあるのは、やはり人間の知覚に対する異質性である。時代が進展するほど、人間の知覚を模する映像の技術も洗練されていくのだが、機械の知覚という映像の本質は変わりなくあり続ける。人間は、決して映像のようには世界を事物を見ないのだ。映像を見ることが、厚みを持った常なる発見行為であり、創造的行為となるのは、そのためである。
人間は、人間の知覚と異質な機械の知覚像である映像を見る行為を通じて自らの経験、体験に取り込み、
そこから得たパターンで外界を地図化して行動していく。映像という新たな機械の知覚の力を借りて、自然の外界は、その潜在性を顕わにし人間にとってさらに深く新たな形で了解可能な風景となる。人間はそのように常に新たに世界を見出し直しては世界のありようを一歩一歩探索し、地図を作製し自らの活動領域を広げてきたのである。
カメラ機械が生み落とす機械映像は、本質にはテクノロジーの問題があり人間が知覚する像とは異質な存在である、このことが映像と文化の核心を成している。身体の外部にある映像は、他者と共有可能なものとして機能し同一の映像が複製されて多数の他者と共有される文化的な知が成立する。この映像の力は厚みのある発見行為を促し、また人間の創造的行為につながり、さらには人間の自然外界での活動領域を拡張させたのである。
参考文献、 日高優編『映像と文化 知覚の問いに向かって』(京都造形芸術大学・東北芸術工科大学 出版局 藝術学舎、2016年)