近世の百姓一揆にみる、民主化の萌芽

 江戸時代、江戸・大坂・京都、三都は世界有数の大都市に発展。人口の増加や貨幣経済の浸透にともなう需要が増大、全国各地で産業が発達、三都を中心とした流通網が整備され、人々の知的欲求が高まり学問や文化等の実用学問が庶民層にまで普及した。18世紀に入ると村内の民主化を目的とした村方騒動が増加した。こうした村方騒動の展開は、百姓一揆や国訴の組織化の基盤ともなり、開国、倒幕と動いた近世から近代の民衆が政治の担い手となっていく社会の萌芽と見做されるのである。

 17世紀後半、伝統的な権威としての天皇を頂点に、武士・百姓・町人の下位に穢多・非人が賤民身分として位置づけられた身分差別の体系が確立。幕藩権力は各身分の職分に応じて役を賦課し、各身分は職分に応じて課せられた役を勤めることによって有意義な存在と考えられたのである。

 兵農分離・農商工分離政策によって幕藩権力による商業・手工業の掌握が強固に行われ、幕藩制下の都市は農村支配・流通支配の拠点となる。三都、江戸・大阪・京都は幕藩制の流通経済の中核都市として発展し、大阪は幕藩制の中央市場「天下の台所」として位置づいた。町は、町人身分や家持等からなる同職種の営業の場として、地縁的な生活の維持のための共同体としての性格を持ち。村は、兵農分離制下の農民支配のための行政単位として位置づき同時に、小農民の自立化を基礎に達成された本百姓の生産と生活を維持する共同体としての歴史的性格を有していた。

 17世紀半ば頃から三都を中心に、お伽草子等の子ども用の絵本が普及する、手習い・算用等の実用主義的な教育も、享保期以降の幕府の教化政策の展開とも相まって寺子屋等を通じて広汎な階層に普及した。識字能力の獲得は町人・百姓の訴訟能力の向上や経験に基づいた合理意識や化学、倫理道徳や学問の発展の基礎となる。さらに、18世紀初頭における心学等の通俗道徳の提唱と普及は大きな意味を持ち、通俗道徳は精神主義的な色彩が強く一面で支配思想として機能したが、人々を積極的かつ実践的な主体としての自己鍛錬により生活の向上をめざす民衆思想として重要な役割を果たした。

 江戸時代を通じて、3200件以上にも及ぶ百姓一揆がたたかわれた百姓一揆の原因は多くの場合、百姓たちは自己の成立のために過重な年貢の減免や藩主・代官の非法の停止等を要求して村単位に結集し、徒党を組んで一揆をおこした。 

 18世紀に入ると、村内においては村方騒動が増加するようになった。騒動の目的は村内の民主化であり、多くの場合、年貢や村入用の割付について不正を行った名主・庄屋に対する惣百姓の追及であり、しばしば惣百姓はそれまで世襲的であった名主の交替をも実現した。こうした村方騒動の展開は、百姓一揆や国訴の組織化の基盤ともなった。

 小賢しき者、事好の者、世間師、公事師等と呼ばれた一揆や村方騒動の組織者が村に登場し、彼らは文筆にあかるく控訴能力にたけ、代官や名主・庄屋の不正を鋭くつき惣百姓に対して騒動を起こすことを勧める民衆知識人である。

19世紀、天保期には飢饉を契機とした米価高騰を背景に、地主・高利貸等の豪農商と下層貧農層の階級的対立が進行し、豪農商に対する打ちこわしが広汎に展開した。

 1837年大阪で大塩平八郎の乱がおきた。元大阪町奉行与力であった大塩平八郎(1793~1837)は、仁政が行われていないことを憂い、諸役人の不正と過重な年貢収奪が国中の窮乏の原因であるとし、諸役人の誅伐と大阪市中の金持町人の制裁のために「救済」の旗印を揚げて蜂起した中途で鎮圧されたが、元幕吏と民衆が共同した最初の武力反乱であったために幕閣に多大な政治的影響を与えた。

 江戸時代、人口の増加や貨幣経済の浸透にともなう需要が増大、全国各地で産業が発達、三都を中心とした流通網が整備され、さらに学問や文化等の実用学問が庶民層にまで普及した。18世紀に入ると村内の民主化を目的とした村方騒動が増加した。こうした村方騒動の展開は、百姓一揆や国訴の組織化の基盤ともなり、開国、倒幕と動いた近世から近代の民衆が政治の担い手となっていく社会の萌芽と見做されるのである。

参考文献、 竹内誠(編集)、君島和彦 (編集)、佐藤和彦(編集)、木村重光(編集)『教養の日本史』東京大学出版会、1995年

関幸彦『武士の誕生』講談社学術文庫、2013年
渡辺尚志『百姓の力-江戸時代から見える日本』柏書房、2008年