【世界史】東ローマ帝国の文化政策


 四世紀初頭に皇帝コンスタンティヌスは、首都コンスタンティノープルを造営、以後「東ローマ帝国」と呼ばれた。

キリスト教を公認し後にキリスト教は国教となるのだ。

西ローマ帝国滅亡後、六世紀にユスティニアヌス帝が西帝国の領土の大半を再征服、聖ソフィア大教会堂の再建とローマ法大全を編纂、大学の創設などをおこなったのだ。

しかし政治的混乱と人間精神の自由活動を妨げる異端迫害は、科学や政治哲学などを停滞させたのである。


東ローマ帝国の文化政策


 ビザンツ帝国は、古代ギリシア文化を遺産とし都市文化が盛んな社会だったのだ。

4世紀初頭にコンスタンティヌス大帝は首都コンスタンティノープルを造営しローマ帝国を再建「東ローマ帝国」と呼ばれた。

またキリスト教に対し迫害より懐柔が得策と考えミラノ勅令により公認する、後にキリスト教は国教となるのだ。

476年に西ローマ帝国滅亡、6世紀には大きな野心と精力をもつ統治者のユスティニアヌス一世が、女優であった有能な婦人テオドラを皇后にし西帝国の領土の大半を再征服した。

さらに大学の創設や聖ソフィア大教会堂を再建して国家の礎とする、またローマ法大全を編纂、後の世界に大きな影響を及ぼした。

 しかしユスティニアヌスは創設した大学の競争者をなくすため、プラトン時代より一千年間つづくアテネの哲学諸学校を閉鎖したのだ。

またコンスタンティノープルではキリスト教の異端者を狩りだすなど異端迫害の時代であった。

生活は、戦争と峻厳きわまる神学と人類の悪徳とから成り立ち、精神の自由な活動を必要とする科学は完全な暗黒の状態を呈していたのである。


 四世紀初頭に皇帝コンスタンティヌスは首都コンスタンティノープルを造営、以後「東ローマ帝国」と呼ばれた。

キリスト教を公認し後にキリスト教は国教となるのだ。

西ローマ帝国滅亡後、六世紀にユスティニアヌス帝が西帝国の領土の大半を再征服、聖ソフィア大教会堂の再建とローマ法大全を編纂、大学の創設などをおこなったのだ。

しかし政治的混乱と人間精神の自由活動を妨げる異端迫害は、科学や政治哲学などを停滞させたのである。


参考文献:H.G.ウェルズ著 長谷部文雄、阿部知二訳『世界史外観、上・下』岩波新書、1966年